2008年08月09日
言葉を交わすということ
ここひと月半ほど、相棒と作業を進めてきて、しみじみ思うのは、細やかなコミュニケーションの大切さ。べつにケンカしたとか言うわけではないのだけれど、折に触れ、そのことを思い知らされる。
一緒にカフェを作ろうと言うくらいなのだから、相当に多くの想いを共有しているし、たくさんの時間をともに過ごして来ているのだけれど、それでも、語らずしてわかり合える、なんてとんでもない、以心伝心なんて到底無理、というのが実感するところ。
こんなモノを作っていくというチョー実質的な作用においては、ああするつもりこうするつもり、といったそれぞれの「つもり」の微妙な差が、たちまち大きな食い違いになったりする。
根源的なことだけど、ひとびとは、どーしようもなく、別々の身体と意識、それゆえ異なった視点や認識を持ち、独自の価値体系に依って生きていて、あまりにばらばらだから、基準を定めることは不可能で、どれが正しいとか多数派だとかいう価値判断は無論できない。
べつに、「だから人はわかり合えない」とか悲観的なことを言うつもりはなくて、そういう「絶対の孤独」を前提として意識したうえで「すりあわせの努力」を重ねていくのが、人と暮らしてゆくと言うことなのだと思う。 ホレタハレタでくっついた夫婦はもちろん、親子だって、仕事のパートナーだって。
かくべつややこしいことを言いたいわけではなくて、要するに、こまめに言葉を交わすということ。
「どうする?」「こうしようと思う」「こういうつもりだった」「そうだったの?」「ごめん」「ありがとう」。
確認し合う作業の中で、たいがいは、「いっしょいっしょ♡」と安心するより、かくも違うのかと愕然とすることの方が多いのだと思う。
けれど、「なんでそうなるの!?」ではなく、「違い」を、より深くわかり合ってゆくための出発点と捉えて、お互いの理解の仕方を提示し合い、受け止めてゆく。そんな積み重ねのなかで、人は少しずつ、近づいてゆくのだと思う。
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