2008年04月18日
「いのちの食べかた」観てきました
「いのちの食べかた」を観てきました。
殺められ切り刻まれる動物たちの恨みが伝わってくるような、おどろおどろしさを覚悟していたのだけれど、きわめて淡々と綴られていました。丁寧に撮影された各シーンは端正で、映像美すら感じるくらい。
登場する労働者たちも、淡々と「仕事」をこなしています。
ブロイラーの飼育舎であっても、アスパラガスの畑であっても、トマトを作るハウスであっても、遠近法を誇張しなくてもあまりに広大で、その広さのぶん、人としての想いというのはどんどん希釈されるでしょう。
効率を追求しつくされた加工場では、額を打ち抜かれて動けなくなった牛は、倒れた瞬間に「モノ」と化してしまいます。吊され、首を割かれて血を抜かれ、皮を剥がされ、電気ノコギリで見事に二枚に下ろされ。
ぼくらは「100人の村」で、餓死する人たちを横目に見ながら飽食する特権を与えれた数人のひとりだから、ああだこうだ言う資格はないのだけれど、ぼくらのいのちを支えるための食物が、いのちへの敬意とはかけ離れたところで大量生産されているという事実をもっと知って、せめてその痛みや業を自分で背負わねば、と思ったのでした。
殺められ切り刻まれる動物たちの恨みが伝わってくるような、おどろおどろしさを覚悟していたのだけれど、きわめて淡々と綴られていました。丁寧に撮影された各シーンは端正で、映像美すら感じるくらい。
登場する労働者たちも、淡々と「仕事」をこなしています。
ブロイラーの飼育舎であっても、アスパラガスの畑であっても、トマトを作るハウスであっても、遠近法を誇張しなくてもあまりに広大で、その広さのぶん、人としての想いというのはどんどん希釈されるでしょう。
効率を追求しつくされた加工場では、額を打ち抜かれて動けなくなった牛は、倒れた瞬間に「モノ」と化してしまいます。吊され、首を割かれて血を抜かれ、皮を剥がされ、電気ノコギリで見事に二枚に下ろされ。
ぼくらは「100人の村」で、餓死する人たちを横目に見ながら飽食する特権を与えれた数人のひとりだから、ああだこうだ言う資格はないのだけれど、ぼくらのいのちを支えるための食物が、いのちへの敬意とはかけ離れたところで大量生産されているという事実をもっと知って、せめてその痛みや業を自分で背負わねば、と思ったのでした。
この記事へのトラックバックURL
http://bcafe.mie1.net/t38169

昨日夢にいっぱい牛や豚やアヒルが登場してきました・・・・・・。一体私の体には牛何頭、豚が何頭いてくれるのでしょうか・・・。ありがたいことです・・・。
明日の朝また何もなかったかのように、
毎日の仕事が始まるのを予期させられました。
いろんな「日常」があるものですね。
みんな、不思議と慣れてしまうのだけれど。