2008年02月23日
祈りしての暮らし(忘却の涯てに)
太古のひとびとの暮らしでは折々の儀礼が今よりもはるかに重んじられ、
それらを中心に生活が回っていたのだと思う。
そこでは、人々の役割や目指すべき道がはっきりと定められ、
「生きてゆく」ということがわかりやすく示されていたように思う。
人は愚かなので、本来素朴によりよく生きてゆくすべを教えていた信仰は、組織化するにつれたちまちに形骸化され変容腐敗し、否定され放逐され、再生しまた破壊されという歴史が止めどもなく繰り返されてきたのだけれど、生きる指針を与えてくれる「信仰」自体は、不要なものだとはけして思えない。
全ての枠組みを外して自ずから高みを目指してゆけるほど、人は崇高ではない。
特定の信仰や教義に深く帰依する必要はないと思うのだけれど、暮らしの神聖な時間を取り戻すべき時代が、ようやく巡ってきているのではないかと思う。
大いなるものによって生かされているということ、母なる大地、降り注ぐ光や巡る風の恵みを受けて暮らしているということへの感謝し、ぼくらのたましいの遠いゆくすえを見やりつつ、ごくシンプルな真理に沿って綴ってゆく日々。
そんな「祈りとしての暮らし」を思い出してゆこう。
それらを中心に生活が回っていたのだと思う。
そこでは、人々の役割や目指すべき道がはっきりと定められ、
「生きてゆく」ということがわかりやすく示されていたように思う。
人は愚かなので、本来素朴によりよく生きてゆくすべを教えていた信仰は、組織化するにつれたちまちに形骸化され変容腐敗し、否定され放逐され、再生しまた破壊されという歴史が止めどもなく繰り返されてきたのだけれど、生きる指針を与えてくれる「信仰」自体は、不要なものだとはけして思えない。
全ての枠組みを外して自ずから高みを目指してゆけるほど、人は崇高ではない。
特定の信仰や教義に深く帰依する必要はないと思うのだけれど、暮らしの神聖な時間を取り戻すべき時代が、ようやく巡ってきているのではないかと思う。
大いなるものによって生かされているということ、母なる大地、降り注ぐ光や巡る風の恵みを受けて暮らしているということへの感謝し、ぼくらのたましいの遠いゆくすえを見やりつつ、ごくシンプルな真理に沿って綴ってゆく日々。
そんな「祈りとしての暮らし」を思い出してゆこう。
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